ヘミングウェイ「大二心川」より
アーネスト・ ヘミングウェイ「大二心川」より抜粋
Extracted from
"Big Two-Hearted River"
by
ERNEST HEMMINGWAY
公式邦題:「二つの心臓の大きな川」(新潮文庫その他)
初出:1925年短編集『われらの時代に』
ヘミングウェイ(1899-1961)主要作品
1925年『われらの時代に In our time』
1929年『武器よさらば A farewell to arms』
1952年『老人と海 The old man and the sea』
初期の短編からの抜粋です。
主人公が列車をおりて、物語が始まります。川を遡ってキャンプをして、次の日に鱒釣りをします。
シンプルですが素晴らしい世界があります。文章は簡潔で、とても読みやすいです。
作品はPART I とPART II の二部構成で、それぞれ一日目と二日目を描いています。
Two-Hearted Riverはミシガン州西部からスペリオル湖に注ぐ、鱒釣りで知られている川です。そのままトゥー・ハーテッド川と表記されていますが、日本語で川の名前なら「二心」かと思います。
※サブタイトルは筆者によるものです

PART I
はじまり
列車は線路をのぼってゆき、焼けた森の丘の一つに回り込んで、視界から消えた。ニックはキャンバスと寝具の束の上に座った。貨物係が貨物車両のドアから投げてくれた。そこに町はなく、レールと焼け尽くされた土地だけがあった。かつては十三軒の居酒屋がセニーの一本通りに並んでいたが、一つの痕跡も残していなかった。ホテル「マンションハウス」の礎石が地面に突き出している。その石は炎によって砕け、裂けていた。それがシニーの町が残した全てであった。地表ですら、大地から焼け出されていた。
川
ニックは焼け尽くされた丘の斜面を見た。そこには町の家並みが、点々と見えるはずだったのだ。それから彼は線路沿いを下って、川にかかる橋まで歩いた。川はそこにあった。それは橋の木桁にぶつかって、うねっていた。ニックは見下ろして、透き通った茶色の水をのぞいた。川底の小石や砂のせいでそんな色なのだ。そして鱒を見つめた。彼らは流れの中でひれを波打たせ、じっと体勢を保っていた。見ているうちに彼らは、鋭い角度で位置を変更した。速い水の中で再びじっとしているという、それだけのためであった。ニックは彼らを、長いあいだ見つめていた。
道
彼が列車をおりて、貨物係が荷物を、開いた車両の扉から投げた、その時からものごとは変わった。セニーは燃え、土地は焼き尽くされて変貌したが、それは問題ではなかった。全てが焼けてしまうなどありえない。彼はそれを知っていた。彼は道なりに歩き、太陽のなかで汗をかき、丘陵を越えるべく登った。こちらがわには鉄道があり、むこうがわにはマツの平原があった。
バッタ
バッタは黒かった。彼が道に沿って登りを歩いていた時に、沢山のバッタが土ぼこりをあげて飛び出してきた。彼らはみな黒かった。彼らは大型のバッタではなくて、羽根は黄色と黒、あるいは赤と黒で、その黒い翼鞘をうならせて飛び立っていた。ごくふつうのバッタなのに、色がどれもすすけた黒なのだった。ニックは何だろうと思いながら歩いていたが、それについて真剣に考えていたのでもなかった。いま靴下の羊毛に四つの唇で食いついているそのバッタを見ているうちに、彼は実感した。彼らはみな、焼け尽くされた土地に住んでいるうちに、黒に変わったのだと。火事が、前の年とかにあったんだ、と彼は実感した。けれどバッタは今、すべて黒い。いつまで彼らはああしているのかな、と彼は思っていた。
太陽
ニックは太陽によって進路を保っていた。彼はどこで川に出会いたいのか分かっていたから、そのまま松の平原を進んでいった。小さな高台に上がり、次の高台を前方に見て、時にその頂上から偉大なゆるぎない松の島を右手あるいは左手に見やった。彼は低いアレチ甘シダの木から若い枝を数本折り取り、リュックの肩ベルトにはさんだ。摩擦が枝を押しつぶし、彼はそれを香りながら歩いていった。
鱒
彼らは跳躍していた。流れの向こうの沼地から虫たちがきていて、太陽は沈もうとしていた。鱒は水中から跳ね上がり、虫をとらえようとしていた。川沿いの小さな草地を抜けてくる途中で、鱒は水中から高く跳ね上がっていた。こうして川を見下ろしていると、虫たちは水面に集まっているにちがいなかった。鱒は流れのいたるところで、確実に捕食していた。遠く下流まで、彼に見えるあらゆる光景の中で、鱒は跳躍していた。水の表面すべてに円を描いて、まるで雨がふりはじめる時のようだった。
眠り
テントの入口の向こうに、彼は炎の輝きを見た。夜の風が吹いた。静かな夜だった。沼地は完全に静かだった。ニックはブランケットの下で気持ちよく体を伸ばした。蚊が一匹、彼の耳に近づいた。ニックは起き上がりマッチを点けた。蚊はキャンバスにとまっていた。ニックは頭の上にマッチを動かして素早くそこに上げた。蚊はその火の中で、シュッと満ち足りた音を立てた。マッチが消えた。ニックはもう一度ブランケットの下で横になった。彼は体を横向きにして目を閉じた。眠たかった。眠りがやってくるのを感じた。彼はブランケットの下で丸くなり、眠りについた。
PART II

朝
朝になって太陽があがり、テントは暑くなりはじめていた。テントの口に張り渡された蚊よけの網の下を這って、ニックは外に出た。朝を見るために。出てゆくと、草が手のうえで湿っていた。太陽は今まさに丘の上にあった。草原があり、川があり、沼があった。樺の木が川の向こうの、沼の草地にあった。
In the morning the sun was up and the tent was starting to get hot. Nick crawled out under the mosquito netting stretched across the mouth of the tent, to look at the morning. The grass was wet on his hands as he came out. The sun was just up over the hill. There was the meadow, the river and the swamp. There were birch trees in the green of the swamp on the other side of the river.
小動物
川は透き通り、滑らかに速かった。早朝だった。200メートルくらい下流に、三つの丸太が流れをずっとさえぎっていた。それで上流では、水は滑らかにそして深くなっていた。ニックが見ていると、ミンクが丸太を伝って川を渡り、沼地に入っていった。ニックは興奮した。彼は早朝と川に、興奮していた。
The river was clear and smoothly fast in the early morning. Down about two hundred yards were three logs all the way across the stream. They made the water smooth and deep above them. As Nick watched, a mink crossed the river on the logs and went into the swamp. Nick was excited. He was excited by the early morning and the river.
オニオンサンド
リュックの中に彼は大きな玉ねぎを見つけた。彼はそれを二つに切り分け、絹のような外の皮をはがした。それから彼は片方を薄切りにして、オニオンサンドイッチを作った。彼はそれを油紙で包み、ミリタリーシャツのあいたポケットに入れてボタンを留めた。彼は小鍋をグリルの上でさかさまにして、コーヒーを飲んだ。練乳を入れたから黄土色で甘い。そしてキャンプを整頓した。良いキャンプだった。
In the pack he found a big onion. He sliced it in two and peeled the silky outer skin. Then he cut one half into slices and made onion sandwiches. He wrapped them in oiled paper and buttoned them in the other pocket of his khaki shirt. He turned the skillet upside down on the grill, drank the coffee, sweetened and yellow brown with the condensed milk in it, and tidied up the camp. It was a good camp.
怒る鱒
彼は、水底のどこかにいるその鱒のことを考えた。砂の上でじっと体勢を保ち、光からはずっと遠く下のほうに、丸太を屋根にして、針を顎にくわえている。ニックには分かっていた。あの鱒の歯は突き刺さった針を断ち切ってしまうだろう。針はその顎に埋め込まれている。あの鱒は怒っている、と彼は断定した。あの大きさなら必ず怒る。あれは鱒なのだ。彼はゆるぎなく針をくわえていた。岩のようにゆるぎなく。彼はまた、かかる前、岩のようにも感じていた。神にかけて、彼は大きなやつだった。神にかけて、彼は俺が今まで聞いたなかで一番大きなやつだった。
沼地
前方で川は細くなり、沼地に入っていた。川は滑らかにそして深くなり、沼地は杉の木々でゆるぎなく見えた。幹は集まって近く、枝はゆるぎなかった。こんな沼地を徒歩で抜けるのは不可能だろう。枝の生え方がやたら低い。ほとんど地表と水平にして移動しなくては全然だめだろう。枝を打破して進むのは無理だ。だから沼地に住む動物たちはあんなふうに造られているんだ。ニックはそう考えた。
Ahead the river narrowed and went into a swamp. The river became smooth and deep and the swamp looked solid with cedar trees, their trunks close together, their branches solid. It would not be possible to walk through a swamp like that. The branches grew so low. You would have to keep almost level with the ground to move at all. You could not crash through the branches. That must be why the animals that lived in swamps were built the way they were, Nick thought.
読む
何か読むものを持ってくればよかった、と彼は思った。読みたい気分だった。沼地に入ってゆく気分ではなかった。彼は川を見下ろした。大きな一本の杉が川を越えて大きく傾いていた。その向こうで、川は沼地に入っていた。
He wished he had brought something to read. He felt like reading. He did not feel like going on into the swamp. He looked down the river. A big cedar slanted all the way across the stream. Beyond that the river went into the swamp.
沼地での釣り
ニックはそこに、いま入って行きたくはなかった。彼は深みでの行軍に対して反発を感じていた。水が深くなり脇の下まで上がってくる、大型の鱒がかかっても陸上げ不可能な場所だ。沼地では土手はむきだしで、杉の大木が頭上に密集し、太陽の光はほとんど入ってこない。速い深い水の中で、半分の光の中で、釣りは悲劇であろう。沼地での釣りは悲劇的な冒険である。ニックはそんなものを欲しくはなかった。今日はこれ以上、流れを遡って進みたくなかった。
ナイフ
彼は鱒を流れの中で洗った。彼が鱒を持って水に戻したとき、彼らは生きた魚のように見えた。その色彩はまだ失われていなかった。彼は手を洗い、鱒たちを丸太の上で乾かした。それから彼は鱒を、丸太の上に広げた革袋の上に置き、その中に巻き込み、包みを束ねて玉網の中に入れた。ナイフはまだ立っていて、刃が丸太に刺さっていた。彼は丸太の上でそれをきれいにして、ポケットに入れた。
帰営
ニックは丸太の上に立ち上がり、釣竿を抱え、玉網をずっしりと吊り下げ、それから水に足を踏み入れ、しぶきを立てて上陸した。土手をよじ登り、森に切り込み、高い地面に向かった。彼はキャンプへ帰ろうとしていた。彼は振り返った。川は木々を通して見えているだけだった。それから溢れんばかりの日々がやってきて、そのとき彼は、沼地での釣りができるようになっていた。
Nick stood up on the log, holding his rod, the landing net hanging heavy, then stepped into the water and splashed ashore. He climbed the bank and cut up into the woods, toward the high ground. He was going back to camp. He looked back. The river just showed through the trees. There were plenty of days coming when he could fish the swamp.
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